SUZUKA 1992
1992.10.25 SUN

フリー走行



1992年ワールドチャンピオン、
[大英帝国の放蕩息子」ナイジェル・マンセルの駆るウイリアムズFW14B。

レッドファイブ マンセルはわれらの期待を裏切らない。
どう裏切らないかと言うと・・・ (NEXT ↓ )












──という具合に、マンセルはわれらの期待を裏切らない。
しかし後輪をコーナーのアウト側にすべらせてのスピンならともかく、
イン側にすべらせているのは器用だ。

 上の光景を見た館内 端さんがPIT−FMで 「あっ、マンちゃんが反省してます!」 と
うれしそうに話していた。
 それを聞いたスプーンカーブ周辺のファンが 「反省だけなら・・・・・」 と苦笑していたのは
言うまでもない。

 ただしマンセルの名誉のために付け加えておくと、このフリー走行でマンセルはチームメイトの
パトレーゼに次ぐ2位のタイムを記録している。

 ところで 「だってサルなんだもん」 というタイトルは、マンガ家 いしかわじゅん先生のパソコンエッセイのタイトルからいただきました。  (おもしろいぞ、みんなで読もう。)





フェラーリF92A、No.28はニコラ・ラリーニ。

 92年のレギュラードライバー、イーヴァン・カペリは前戦ポルトガルを最後に降板。
変わってハンドルを握るのはテストドライバー、ニコラ・ラリーニ。
 日本にはなじみの深いカペリが、フェラーリを駆る姿を見ようと鈴鹿にやってきたファンを嘆かせた。
それもこれもF92Aの成績不振により、例によってフェラーリの内紛が発生したのが原因である。

 ところで成績は残せなかったものの、自分はフェラーリF92Aがけっこう好きだ。
 アンダートレイのダブルデッキ構造といい、独特のエアダクト形状といい、デザイナーの暴走っぷりが見て取れる野心的なマシンだと思う。 
 しかしながら、エンジンの重心が高い位置にあるため運動性能が悪かった。 サンドトラップにコースアウトするとダブルデッキ構造の隙間に砂利が入り込んでしまい、ほうきを突っ込んで掃除をしなければならなかったそうである・・・・・ (´Д`)

 歴代F1マシンで「駄っ作機」コンテストをやったら、フェラーリF92Aはかなりいい位置に来るんじゃ
なかろうか?





フリー走行後、搬送されていくセナのマクラーレンMP4/7。


 マンセルのようにどこかでスピンして「反省」していたわけではなく、エンジントラブルだったようだ。

 1992年 ホンダはすでに第二期F1活動終了を発表していた。 
 マクラーレン・ホンダとしてはこの日本GPの次戦、オーストラリアGPが最後のレースとなる。
 そしてホンダがF1に再度復帰するのは8年後まで待たねばならなかった。


 





みなさんお昼ご飯。 こういう気合の入ったファンは見てるだけでうれしい。

 




サポートレースの全日本F3を走るジャック・ヴィルヌーヴ。
ヘルメットカラーはこの頃から変わらない。



 
 1992年 全日本F3シリーズに参戦していたジャック・ヴィルヌーヴは、初参戦の異国でのレース
ながらシリーズ3回の優勝を遂げる。 総合優勝は逃したもののドライバーズポイントはシリーズ2位と非凡な才能を見せた。
 翌年は全日本F3000でも走るのかと思っていたら、インディ・ライツへ参戦するためにアメリカへ
行ってしまった。

 2連星はジルファンなので当然ジャックも応援していた。 しかし このレースでジャックは1周でリタイア。 〇| ̄|_
 唯一写したこの写真、見てお分かりのようにピントは甘いわ、手ブレはしてるわ──

 ええい、このやり場のない憤りをどうしてくれよう・・・
 (ま、ほかの写真もこんなもんだが・・・)
 あんまり腹が立ったので、1996年 ジャックのF1デビュー戦をアルバータパークまで見に行って
しまった・・・と言うのは別の話である。



 



決勝
 



F1参戦1年目の片山右京。ヴェンチュリ・ラルース LC92。

予選20位ながら好走を見せ、着実に順位を上げていった片山右京だったが、
チームメイト ベルトラン・ガショーとの接触で順位を落とし11位に終わった。


 



ダッラーラ BMS192のJ・J・レートを追う片山右京。

ダッラーラ BMS192はフェラーリエンジン、
ヴェンチュリ・ラルース LC92はランボルギーニエンジン。
つまり フェラーリ vs ランボルギーニ 対決 !!
おおっ! 燃える!!








ロータス107、F1参戦2年目のミカ・ハッキネン。



そしてジョニー・ハーバート。


 あああああああ、ロータス107カッコいい〜〜
 
スタイルといい、カラーリングといい、もう最高!!
 鈴鹿でF1GPを初開催したのは1987年。 この1987年以降のF1マシンの中では、2連星一押しのマシンである。
 ( ロータス107 よく壊れたけどな・・・ )

 この年のロータスはマシンの出来も良かったが、 なによりドライバーのジョニ・ミカ コンビの相性が良く、チームの雰囲気も最高だったのが折りに触れファンにも伝わってきた。 (NEXT ↓ )





──だから、こういうシーンを見ることもできた。 シューマッハを追うハーバート。
Go Johnny Go! Go!♪


 ちなみに予選5位シューマッハ、6位ハーバート、7位ハッキネン。
 この予選結果はロータス107の出来が良かったこと、そしてハーバートがシューマッハ、ハッキネンと比べても遜色のない、速いドライバーであったことを示している。

 しかしこのレースではハーバート、ハッキネンともに、一時は3位を走りながらマシントラブルでリタイアしている。  ( ホント、ロータス107 よく壊れたんだ・・・これが )






6周目 スプーンカーブの立ちあがりで、ティレルのオリビエ・グルイヤールがクラッシュ。



逃げ出すグルイヤールの横をジョーダンのマシンが通過していく。



セナ、2周目 エンジントラブル
シューマッハ、13周目 ギヤトラブル
マンセル、44周目 エンジントラブル

その結果・・・




優勝 鉄人リカルド・パトレーゼ



2位 ゲルハルト・(スケ)ベルガー

そして、3位マーチン・ブランドル・・・・は写真が無かった。スマン
──というわけで1992年 日本GPの表彰台は
ウイリアムズ、マクラーレン、ベネトン、各チームのNo.2ドライバー 3人が占めることになった。






おまけ
 



ホンダの展示ブースに、歴代ホンダF1マシンとともに展示されていたティレル020

この純白のティレル020は無限がエンジンテスト用に購入したもの。
1991年 富士スピードウェイで鈴木亜具里がテストドライブを行った。
タイヤはブリヂストンのF1用試作タイヤ、当時ブリヂストンはまだF1にタイヤを供給していなかった。

 
 



決勝レース後、ジョーダンショップに並んでいたジョーダン192のアンダートレイ.

まさに当日の決勝レースでクラッシュ、リタイアした
マウリシオ・グージェルミンのマシンのアンダートレイである。



値段は覚えていないが高かったのは確かだ──
イギリスに持って帰っても役に立つわけではないが
即行で売りに出すあたり、さすが商売人エディ・ジョーダン・・・


 







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